相川 良太

profile

所属球団
元オリックス・ブルーウェーブ
元オリックス・バファローズ
氏 名
相川 良太(あいかわ りょうた)
ポジション
生年月日
出身地
内野手・外野手
1977年1月18日
福岡県

【球歴】

出身中学(出身チーム)
福岡中央シニア(福岡県)
出身高校
暁星国際高校(千葉県)
出身大学
東海大学
その他出身チーム

【プロ野球歴】

プロ野球入団
1998年 ドラフト3位 オリックス・ブルーウェーブ
所属球団( )内は背番号
1999年~2004年 オリックス・ブルーウェーブ (30)
2005年~2010年 オリックス・バファローズ  (30→53)
引退
2010年

【プロ野球(NBA)通算成績】

通算:12年
試合数 打数 得点 打点 安打数 二塁打数 三塁打数 本塁打数 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 打率
314 736 70 95 181 42 1 28 12 19 3 43 6 179 .246

next stage

2011年2月~ 「アーデルバッティングドーム」プロスタッフ
【 店名 】
アーデルバッティングドーム & アーデル野球塾
【 住所 】
埼玉県さいたま市岩槻区府内2-1-10
【 電話番号 】
048-798-9988
【 営業時間 】
月~金 12:00~24:00  土・日・祝 10:00~24:00
【 対象 】
バッティングドーム→軟式球&硬式球  野球塾→幼児・小学生・中学生・成人
【 地 図 】
場所はコチラ
【 WEBサイト 】
http://play-ball.jp/index.html

interviews

「運だけでやってきたようなもんですからお世話になったみんなに感謝ですね」

  • 真木
    「こんにちは、こうやって直接話をするのは初めてだと思いますけど、よろしくお願いします」
  • 相川
    「こちらこそよろしくお願いします」
  • 真木
    「今回取材に来る前にいろいろ調べてたら、なんと相川君の初出場の対戦が俺だったんだね?すごい偶然だね~」
  • 相川
    「そうですよ~!初出場だったので今でもはっきり覚えてますよ。真木さんとの対戦で三球三振だったんですよ」
  • 真木
    「やっぱり初出場の場面は覚えてるもんなんだね~?三球三振って緊張してたって事?」
  • 相川
    「はい。7回に代打での出場だったのでそれまではベンチ裏で準備してたんです。その時はまったく緊張なんてしてなかったんですけど、打席に入った途端体が固まりましたね!それで1球目見逃し、2球目も見逃し、ヤバいと思って3球目はボール球を空振りで三球三振でした」
  • 真木
    「へ~、ルーキーを相手に俺も容赦なかったんだね(笑)。と言う事でプロでの話はまた後で聞かせてもらうとして、子供の頃、野球を始めたのは何歳の頃だったの?」
  • 相川
    「小学校の3年生からですね。こんな事言ったら良くないかもしれないですけど、そんなに野球がやりたくて始めたって訳でもないんですよ。小さい頃からプールに通ってたんですけど仲の良い友達が何人か野球をやるって言ってたので、それに合わせて始めたようなもんなんです。親にもプールを辞めて野球をやりたいって言ったもんだから、中途半端に辞めないって約束をして野球をやらせてもらいましたね」
  • 真木
    「そうなんだ~。でもそれで中学生になる時は、硬式のシニアリーグのチームに入ったって事は、その頃には自分から野球をやりたいって思うようにはなってたの?」
  • 相川
    「う~ん、小学3年生の時よりはありましたけど、でもやっぱりそのシニアのチームに入ろうと思ったのは友達がシニアチームに入るからって言うのも理由の一つでしたね。それともう一つの出来事があって、家の前の道で父親とキャッチボールをしてたら、たまたま通りかかった人に声を掛けられて『投げ方が良いからウチのチームに来ないか』って。それが行く事になったシニアのチームのコーチの人だったんです」
  • 真木
    「そんなたまたま通りかかった人に声を掛けられてチームに入るなんてドラマみたいな話だね」
  • 相川
    「そうですよね。でもその後の僕自身の野球での進学や進路を考えると、その人との巡り合わせが事の始まりだったんだなって思うんですよね」
  • 真木
    「たしかに、福岡県で育って中学生まで過ごしてたなら福岡県内や九州の高校に進学するのが普通だと思うけど、意外に千葉県の高校に野球で進学してるんだよね?これはどういう流れだったの?」
  • 相川
    「僕の入ったそのシニアのチームってオーナーがあの稲尾さんだったんですよ。それで稲尾さんが暁星国際高校と関係があって紹介してもらったんです。ウチのシニアからは2コ上の先輩からその高校に行くようになってたので行きやすかったのもありますね。それに高校2年生までしかいない野球部で、千葉県の夏の予選を準優勝してた事もあって、甲子園も狙えるんだって事もありました」
  • 真木
    「実際高校での生活はどんな感じだったの?それだけ野球に力を入れてた学校だったら練習も厳しかったんじゃないの?」
  • 相川
    「いや反対で、監督さんが自主性を尊重する方で、練習時間が長い訳でもないし厳しかったって印象はないですね。学校全体が寮生活だったんですけど、15時とか16時くらいに練習が始まって、19時半には夕食時間だったので、練習時間も3時間前後だったんじゃないかな~」
  • 真木
    「たしかに時間は長くはないね~。俺たちの時代だったらまだまだ先輩後輩の上下関係も厳しい時代だったと思うけど、その辺はどうだったの?」
  • 相川
    「僕たちの2学年上の先輩たちまでは結構厳しかったって聞いてますけど、それを受けてきた先輩たちが『それはやめよう』って事にしたみたいで僕たちの時は全然厳しくなかったんですよ。しかも学校全体がカトリック系の学校だったので、野球部だとしても坊主頭が禁止だったんです。大会前に野球部みんなで『気合い入れよう』って事になっても坊主に近い短髪止まりでしたね」
  • 真木
    「へ~、学校として坊主が禁止なんて初めて聞いた!(笑)珍しいよね~。
    でも高校がそういう雰囲気の野球部だったら東海大学はその分大変だったんじゃない?東海大学に進学する事になった経緯は?」
  • 相川
    「いやそれが、東海大学って想像してるよりは厳しくないんですよ。もちろんグラウンドでは監督は厳しかったんですけど、寮生活とかはそこまで厳しくはなかったですね。
    高校3年の時に他の大学のセレクションも受けてたんですけどなかなか決まらず、最後に東海大学を受けに行ったんです。ピッチャーと野手と両方で受けてて、野手としてはダメだったんです。これは大学の4年生になってから聞いた話なんですけど、セレクション当時の原監督が、受験生の一覧で〇を付ける選手を間違えて僕が受かったんだそうです。ホント運が良かったとしか言いようがないですね。助監督の方は何回も何回も監督に『この選手で良いんですか?』って念を押して確認してたらしいですから」
  • 真木
    「そうなの?そんな巡り合わせがあるんだね~。でもそう言いながらも2年生でレギュラーも取ってタイトルだって何回も取ってるでしょ?」
  • 相川
    「それも運が良いんですよ。だって最初は間違いだったとしてもピッチャーとして合格したわけですよ。でもすぐに膝の手術をする事になってしまってピッチャーらしい練習は出来ないままだったんです。それでバッティングしてみろって事で打ってたらそのまま野手に転向する事になったんですよ。あの時膝の手術をしていなければピッチャーのまま埋もれてたと思いますね」
  • 真木
    「まあそれでドラフト3位で指名される事になるんだもんね~。運も実力のうちだよね。ドラフトはどうだったの?指名されるかどうかって言うのは事前に分かってる話だった?」
  • 相川
    「そうですね、これも東海大OBのスカウトの方がいたから目を掛けてもらってたんだと思います。ホント僕の野球人生って運の良さの連続なんですよ。家の前のキャッチボールで声を掛けられたことに始まって、高校を紹介してもらったり大学のセレクションでは間違って合格した事とかですね。運だけでここまで出来たって感じですよ」
  • 真木
    「いや~、運だけではプロで12年もやれないと思うけどね。プロに入団してからはどうだった?入団直後のオープン戦ですごい調子が良かったんだよね?」
  • 相川
    「そうなんですよ。そこが僕の中の大きな分かれ道でしたね。大学でも大して打ってた訳でもないホームランをプロ入ってすぐのオープン戦で3試合連続で打ってしまったんですよ。それで完全に勘違いしてしまいましたね。『バッティングなんて簡単だ!』って。でも実際はそう思った途端にまったく打てなくなってしまってしまったんです。それまで自分がどう構えてどう打ってたのかも分からなくなってしまって・・・。もう一度自分のバッティングを見つめ直して作り上げるのに2年間かかりましたよ」
  • 真木
    「そういうもんなんだね~。そのオープン戦での3試合連続を打って勘違いって言ってるけど、何か思い当たる事とかはあるの?」
  • 相川
    「まあルーキーでしたし、あからさまにふんぞり返ってって訳ではなかったと思うんですけど、もともと大学時代から友達たちとお酒を飲んだりする事も好きでしたし、1年目からお酒は飲みすぎだったかなって思いますね。それが直接の原因かどうかは分かりませんけどね。でもそういう心の隙が出来てた証拠だと思うんです」
  • 真木
    「そっか~。そういうのって終わってみて時間が経たないと分からないもんなんだよね~。俺も似たような事を経験してるからね。俺の場合は復活できなかったけど・・・。
    プロ野球人生の中で一番の思い出って何か残ってる事ある?」
  • 相川
    「2001年の近鉄がリーグ優勝を決めた試合で9回にホームランを打ったんですよ。で、次の試合に西武の許ってピッチャーが防御率のタイトルがかかってたんですけど、1打席目にホームラン、2打席目もホームランを打って2試合にまたがって3打席連続でホームランだったんです。それで、次の打席でも会心の当たりだったんです。これが入れば4打席連続のホームランで日本タイ記録だったんです。中村紀さんとかブライアントとかの記録だったんですけど、残念ながらフェンス直撃止まりでしたね」
  • 真木
    「うわ~惜しいね~!あと1メートルあれば日本記録だったんだ!もうちょっとで中村紀さんとかブライアントに名前が並んでたのにね~。でも3打席連続でもすごい事だよね。
    そんなこんなで12年やって、最後戦力外になった時はトライアウトを受けなかったの?まだ現役を続ける思いはなかったって事?」
  • 相川
    「クビになる年に、自打球で足のスネの骨を骨折したんです。普通は細い方の骨が折れる事の方が多いらしいんですけど僕は太い方の骨が折れてしまって、リハビリして骨折が治っても痛みが全然取れなかったんです。終盤にはユニフォームも着て練習は出来る状態まではなってたんですけど、走っても痛くて足を引きずるような状態だったんです。だから痛みがひどすぎて現役を続けるとかそういう問題じゃなかったんですよね。それで自分の野球人生は終わりましたね。野球もやめて時間とともに痛みはなくなったんですけどね」
  • 真木
    「そうだったんだ~。じゃあ結局はケガが原因で引退する事になったようなもんなんだね。でも、一旦は現役から離れてでも痛みが徐々になくなってきたらまた野球をやりたいって思わなかったの?年齢的にもそうだし、体力的にだったり成績が悪くて戦力外になったって訳でもなかっただろうしね」
  • 相川
    「いや~、でも実際は家族もいますし思わなかったですね。やっぱり戦力外になってからは次の事を考えなくちゃいけなかったですし、次の行動をとっていろんな人に相談もしてましたからそれを無駄にするわけにもいかないですからね」
  • 真木
    「実際、戦力外になった後はどんな事を考えてたの?」
  • 相川
    「ホントどうしようかな~しかなかったですよ。一応球団の人にも相談はしてましたけど『自分でも探しとけよ』って感じでしたし。そんな時に、オリックスの先輩でもある高見澤さんと福留さんがわざわざ神戸に来てここの話をしてくれたんです。それで年が明けて早速2月からお世話になりました」
  • 真木
    「そういう意味では、もちろんプロでもなければ選手としてでもないけど、野球選手にとっては野球と密に関わり続けられる仕事として最高の場所だよね。しかも、元プロ野球選手が何人もいて同じ境遇や同じ想いを持った人たちが集まってる訳だからホント最高の場所だと思うわ」
  • 相川
    「そうですね。今まで長年やってきた野球を、今度は子供たちに伝えていく事が仕事に出来るって言う事がすごくありがたい事だと思ってます。自分の経験して良かったことを伝えたり、逆に失敗して反省するべきことを教えてあげれたりとか。ホントやりがいを感じますね」
  • 真木
    「そうだよね~。この先長くやっていけばいくほど、自分の教え子が甲子園に出たり、いずれプロ野球選手になったりとかね。そんな選手がたくさん生まれてここに帰ってきてくれるのが楽しいだろうね~」
  • 相川
    「ホントそうなるといいですね」
  • 真木
    「じゃあそろそろ時間も長くなってしまったのでこの辺で終わらせてもらいますね。今からまた別の場所に行って教室なんだよね?ごめんね忙しい中時間をもらってしまって」
  • 相川
    「いえいえ大丈夫ですよ」
  • 真木
    「今日はありがとう。ここにはまだまだたくさん元プロ野球選手がいるから、また他の人にもお世話になると思うので、またその時はよろしく」
  • 相川
    「こちらこそよろしくお願いします。ありがとうございました」
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