野田 浩司

profile

所属球団
元阪神タイガース
元オリックス・ブルーウェーブ
氏 名
野田 浩司(のだ こうじ)
ポジション
生年月日
出身地
投手
1968年2月9日
熊本県

【球歴】

出身中学(出身チーム)
多良木中学校
出身高校
多良木高校(熊本県)
出身大学
その他出身チーム
九州交産

【プロ野球歴】

プロ野球入団
1987年 ドラフト1位 阪神タイガース
所属球団( )内は背番号
1988年~1992年 阪神タイガース         (1→18)
1993年~2000年 オリックス・ブルーウェーブ  (21)
引退
2000年

【プロ野球(NBA)通算成績】

通算:13年
登板 先発 勝利 敗戦 セーブ ホールド 投球回数 被安打 被本塁打 与四球 与死球 奪三振 失点 自責点 防御率
316 209 89 87 9 1614.1 1502 185 561 37 1325 677 628 3.50

next stage

2001年~2003年  野球評論家
2004年        オリックス・ブルーウェーブ1軍投手コーチ
2005年~現在   飲食店「まる九」 店主
            野球評論家
            社会人野球チーム臨時投手コーチ  など
【 店名 】
まる九
【 住所 】
兵庫県神戸市中央区北長狭通1-3-11 ノアールビル5F
【 営業時間 】
17:00~24:00 (ラストオーダー23;00)
【 定休日 】
日曜日
【 電話番号 】
078-321-0474
【 地 図 】
場所はコチラ
【 WEBサイト 】
http://tabelog.com/hyogo/A2801/A280101/28005037/

interviews

「やっぱり震災の年の優勝は特別な思いがあるね。優勝を決めた時には、チームメイトのほとんどの選手が自然と涙を流してたのは今でも鮮明に覚えてるよ」

  • 真木
    「こんにちは、今日はお店の開店前でお忙しいところをありがとうございます」
  • 野田
    「いやいや大丈夫だよ」
  • 真木
    「野田さんと言えば1試合19奪三振のプロ野球記録を更新されたって言うイメージが強いんですが、今日はどうやってそんな偉大な投手になれたのかと言うようなお話をゆっくり聞かせてください。
    いきなりなんですが、野田さんが野球を始めたのはいつくらいからなんですか?」
  • 野田
    「細かく言うと小学校2年生くらいかな。でもその時は、父親が大人の軟式野球チームの監督をやってて、そこに行って一緒に練習をしたり、試合の時はスコアをつけたりしてたくらいだけどね。
    熊本の田舎だったから当時は近くに少年野球チームがなかったんだよ」
  • 真木
    「そうなんですか? じゃあチームに入って始めたのはいつからなんですか?」
  • 野田
    「小学校4年生の時だね。と言ってもその時も野球チームはなかったからソフトボールチームに入ったんだけどね。 だから、野球のチームに入ったのは中学になってから学校の軟式野球部に入って初めてだね」
  • 真木
    「そうだったんですね~。でもこうやってOBの人達にお話を聞いてると、最初はソフトボールから始めたって言う人は結構いますね。じゃあ硬式のボールを握ったのは高校に入って初めてだったんですね?」
  • 野田
    「そうそう、本当に田舎だったから家から通ってる中学校の野球部に入って、これまた家から通える範囲の公立高校に進学して野球部に入ってって感じだったね」
  • 真木
    「高校に進学する時は、多良木高校以外には考えなかったんですか?」
  • 野田
    「う~ん、熊本の私立高校から誘いの声を掛けてくれた学校もあったんだけど、とにかく家が田舎で、当時は交通手段も今ほど便利じゃなかったから熊本市内に行くのに3時間くらいかかるような場所だったんだ。そんな田舎で育ったもんだから、自分がそんな有名高校に行っても通用するわけないって自信が持てなくて、それで地元の高校に行ったんだ」
  • 真木
    「それでその多良木高校ではどんな高校野球生活を送ったんですか?」
  • 野田
    「公立高校だったんだけど監督は熱心な方で、練習も厳しい方だったと思うな。とは言っても公立高校だから私立ほどではないんだろうけどね。1年生の夏の大会からベンチには入れてもらったんだけど、でも1年先輩に良いピッチャーの先輩がいたからずっと2番手だったな。それで先輩も引退して2年生の秋からようやく主戦で投げるようになって、最後の3年生の夏の大会は熊本県予選の準決勝で負けてしまってベスト4止まり。甲子園には行けなかったんだ」
  • 真木
    「熊本も激戦区ですし、ひと昔前は甲子園でも熊本勢は強かったですもんね~。
    高校卒業してからは九州産交と言う社会人チームに行ったんですよね? すいません知識不足なんですけど・・・、九州産交ってどんなチームだったんですか?」
  • 野田
    「うん、熊本市内にあるバス会社なんだけど、ここの野球部は歴史あるチームだったんだけど、結局俺が入社して2年で野球部は廃部になってしまったんだ。高校卒業時もプロからは10球団くらい声を掛けてもらってたり、他の社会人チームからもお誘いはあったんだけど、高校の監督の後輩の人がその九州産交のエースで投げていて、その人がいたと言う事もあってここにお世話になったんだ」
  • 真木
    「そうなんですね。 社会人では入社してすぐに試合で投げてたんですか?」
  • 野田
    「そうだね。そのエースで投げてた人ももう年齢的にベテランの人だったから、背番号もその人が付けてた18番を譲ってくれて、試合でも結構投げさせてもらったね。 でもよく打たれたよ~。特に当時はまだ金属バットの時代だからね、ホントによく打たれてたよ」
  • 真木
    「あ~、そうですね、あの社会人の金属バットは本当に反則でしたよね。でもやっぱりその分、社会人からプロに入るピッチャーの人達って即戦力で活躍する人が多かったですよね」
  • 野田
    「そうかもね。ホント、あのよく打たれた経験があったからこそ、このままじゃダメだって心底思えたしね」
  • 真木
    「話はどんどん進むんですけど、入社して2年後には阪神からドラフト1位で指名されてプロ入りするんですよね?」
  • 野田
    「そうそう、それにはちょっとしたドラマがあってね。規約では、高卒の社会人選手は3年経たないとドラフト対象選手にはならないんだよね。俺はまだ2年だったから対象にするなってなかったんだよ。それよりもホントよく打たれてたからそれ以前の問題だったんだけど(笑)。 そしたら、たまたま秋の日本選手権の予選で、3連投の3連続完投勝利で2桁奪三振とかの活躍をしちゃったんだよ。決勝では負けてしまったから日本選手権には出れなかったんだけどね。
    その時にはもう九州産交が廃部になるって話は知られてたから、それでたぶんスカウトの人達が調べてみたんだろうね。規約に特別ルールみたいなのがあって、チームが廃部になる場合に限って3年以内でもドラフト対象になるって」
  • 真木
    「へ~、そんなルールがあるんですね~」
  • 野田
    「もちろん俺も知らなかったけどね。休部じゃダメなんだって、廃部じゃないと適用されないらしいんだけど九州産交は廃部だったんだよ。それが分かって騒ぎ出したのが、もうドラフトの1~2週間前だったんじゃないかな~。俺もそんな事は知らないからさ、チームが廃部になって来年どこで野球が続けられるんだ?ってもちろん考えるでしょ? 同じ九州の日産自動車って言うチームに移籍する事も決まってたんだけどね。 それからドラフトまでの間はもうドタバタよ! いろんな球団から指名の意思を聞かせてもらって、それで移籍を受け入れてくれる事を決めてくれてた日産自動車にもお断りのお詫びにも行ったしね」
  • 真木
    「そんなドラマがあったんですね~。こうやって話を聞かせてもらうのは簡単な事ですけど、その当時の野田さんだったり周囲の人達もそりゃ大変だったでしょうね~。何と言っても一生に一度きりのドラフトの事ですからね。
    それで晴れて阪神タイガースから1位指名を受けたんですね?」
  • 野田
    「実際はそれもビックリだったんだよ。もちろん会社には連絡はあったらしいんだけど、俺は阪神の評価って言うのは全く聞かされてなかったからね。一番熱心だったのはヤクルトと当時の南海ホークスだったかな。だから、そのどっちかかと想像してたらいきなり阪神だったからね。あれだけの人気球団だからやっぱりすごかったね。そのドラフトの日は熊本城に3回も行かされたよ。最初から分かりきってた1位指名だったら報道陣も最初から準備してきてたんだろうけど、外れ1位で隠し玉的な指名だったから、最初から情報を聞きつけて来て準備してた報道陣もいれば、指名をされてから慌てて熊本に飛んでくる報道陣もいたりして・・・。それで結局熊本城を3往復!」
  • 真木
    「ハハハ、そんな裏話があるんですね~。
    なんかここまでサラ~っと話を一気に進めてしまったんですけど、ちょっと振り返ってみたいんですが、ドラフト1位で、その後奪三振のプロ野球記録を更新する野田投手が生まれた原点になった一番重要な時期はいつだったと思いますか?」
  • 野田
    「それは社会人時代だね! もちろん子供の頃も将来プロ野球選手になりたいって目標を持って練習もしてたし、高校でも熱心な監督の下で経験もしてきたけど、でもやっぱりそれ以上に野球の意味でも生活の意味でも社会人になってからの気持ちの変化が大きかったね」
  • 真木
    「気持ちの変化ですか? それはどういう意味ですか?」
  • 野田
    「もちろん、すごくお世話にもなったし感謝の気持ちしかないのは事実なんだ。でも正直言うと失礼なんだけど、やっぱり高卒で入社して給料も安かったし、これでどうやって将来家庭も持ってやっていけるのかな?って思ったのも事実なんだよ。実家から出て暮らしたのも初めてだったから、その大変さも感じたしね。
    それで高校の時も声を掛けてもらってたプロ入りの選択肢を自信がないからなんて言ってられないって。何としてでももう一度声を掛けてもらって、自分の現実として勝ち取らなきゃって思うようになったんだ。 それからって訳ではないんだけど、もともとよくボールは投げてたんだけど、より一層投げ込みも多くしたし、走り込みやウェイトトレーニングも率先してやるようになったかな」
  • 真木
    「それがハングリー精神ってやつですね。
    またいきなり話は飛んでしまうんですけど、野田さんと言えばフォークボールで三振を取るって印象が強いんですけど、社会人の時からそうだったんですか?」
  • 野田
    「う~ん、その頃からフォークボールを投げてはいたけど、プロの時ほどではなかったね。フォークボールに限らずだけど、特に変化球なんて投げながらしか覚えられないからね。ホントよく投げたよ。ブルペンで投げるのは当たり前だけど、それ以外でもキャッチボールやカベ当てとかでもね。プロの時って、練習開始前になるとみんなバラバラでグラウンドに出て行って外野の方でストレッチしたりするでしょ? その時俺は、グラウンドに出て真っ先にやる事がカベ当てだったからね。
    投げる以外でも、自分の姿が映るような鏡を見つけるとどこであろうと自分のフォームを映して腕の位置を確認したりしてね。ナイターが終わって食事に行ったり飲みに行ったりした時でも鏡があるとついやってしまってたね。 それくらい四六時中、自分の体の事を考える習慣がないとね」
  • 真木
    「そんな野田さんが、プロ野球生活13年の中で印象に残ってると言うか、想い出に残ってるシーンってどんな事ですか?」
  • 野田
    「いろんな経験させてもらったからたくさんあるんだけど、経験した者にしか分からないあの人気球団タイガースでプレーできて、特に地響きがするような甲子園のマウンドで投げれたって言うのもあるし、その正反対で、当時はまだパ・リーグは観客が少ない時代だったからオリックスに移籍した時の人気の無さにも驚いたしね。でもそんな中イチローが活躍するようになってお客さんも増えたし、何よりもあの阪神淡路大震災の年に優勝できた事は大きかったね」
  • 真木
    「あ~、あの年の優勝はすごかったですね。普通に優勝するだけでもすごい事なのに、その年の優勝は特別でしょうね。
    みんなチームの中はどんな空気だったんですか?」
  • 野田
    「震災の直後は、オリックスは今年はペナントレースには参加できないだろうなって思ってる選手が多かったんだよ。でも2月1日のキャンプインに、なんとかみんないろんな場所からバラバラで集まってきて・・・、正直『あ、野球やるんだ』って思ったね。
    開幕して3月とか4月はお客さんも少ないんだけど、でもリュックを背負って応援に来てくれる人達もいて、シーズンが進むにつれ勝っていったらどんどんお客さんも集まってきて、最後優勝する頃にはチケットが買えなくて球場の外の木によじ登って見てる人達もいたよ。あの超満員はタイガースのともまた違ったものだったね」
  • 真木
    「まさにその当時のスローガン『がんばろう神戸』そのものですね。
    その年も含めて合計2度の優勝を経験されて、数年後に引退する決意はどうでしたか?」
  • 野田
    「もう最後は自分の思うように投げられないのが3年も続いてたからね。ちょうどFA宣言をして残留の3年契約をした直後に右肘の手術をする事になって、それっきり思うようには投げられなくなっちゃったから辛かったね。契約は3年だったんだけど、2年が過ぎた時にもう自分から辞めようかとも悩んだんだ。でももう一度イチから勉強しようと思ってアメリカにも行ってリハビリをしながら野球の勉強をして・・・。それでも復活は出来なかったけどね。
    それでそのシーズン限りで引退したんだ。正直言うと、引退してホッとしたと言うかスッキリしたかな。とにかくその投げられない3年間が長くて辛かったから」
  • 真木
    「最後、引退試合はされたんですか?」
  • 野田
    「試合にはならなかったんだけど、そのシーズンの最終戦で試合前の始球式とスピーチをやらせてもらったね、ホント感謝してるよ。ちょうどイチローも翌年からメジャーに行くことが決まってたからお客さんも満員で、ちょうど良い記念になったよ。
    始球式の前にブルペンで投げてたら、葬式みたいにバックスクリーンに俺が映されてて、それを見ながら涙が溢れてきて止まらなかったのは今でも覚えてるね。プロ野球人生で涙を流したのは、震災の年の優勝を決めた胴上げの時とこの時の2回だったかな」
  • 真木
    「引退セレモニーが出来るプロ野球選手って本当の一握りだけですもんね、羨ましいです。
    引退後も一度はオリックスのユニフォームを着てコーチもされたんですよね?今はプロ野球の解説もしながらこのお店がメインだと思うんですが、野球とお店とどんな活動されてるんですか?」
  • 野田
    「その年によって動きが違ったりするんだけど、いろんな所に野球教室に招待してもらったり、社会人チームの臨時コーチをしていたり、テレビやラジオの解説もやらせてもらうんだけどね。だからやっぱり野球からは離れる事は全く無いね。出来るだけお店にも出るつもりなんだけど、こうやって野球の活動もあるからなかなか毎日出る事は出来てないかな。
    お店に出るのも楽しくて好きなんだよ。野球ではプロになったけど一般社会では分からない事ばっかりだから、お客さんといろんな話をしながら教えてもらう事がたくさんあってね」
  • 真木
    「そうなんですね。 じゃあ最後になりますが、今からプロを目指して頑張っている子供達やその家族の人達に野田さんだからこそ伝えられる事ってどんな事ですか?」
  • 野田
    「う~ん、まず言える事は、とにかく野球を好きになって欲しいね。好きじゃなければ上達もしていかないだろうし。だから親やその周りの大人の人達には、子供が野球を好きになるような環境作りを考えて欲しいね。
    親が押し付けたり、何が何でもプロ野球選手にさせたいとか、大人の頭ばかりが大きくならないようにしてほしい。子供にはまだまだ無限の可能性があるんだから、いろんな事に挑戦させたらいいと思うし、もしかしたらそれが野球じゃない事なのかもしれないしね。とにかく子供が好きで夢中になれる事を一緒に探してあげて欲しいと思うね」
  • 真木
    「好きになるって難しい事ですよね。今の時代、昔と違って遊びの種類だったり情報がたくさんありますからね。何か一つの事に集中して夢中になるって言う事が難しい時代なんだとつくづく感じます。
    本当は1試合19奪三振の記録の話とか、もっとたくさんお聞きしたい事があるんですけど時間の関係でこれで終わらせてもらいます・・・。 今度は客として来ますので、その時は他の話もたくさん聞かせてくださいね。
    今日は本当にありがとうございました」
  • 野田
    「いえいえ、こちらこそありがとう」
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