- 所属球団
- 元 福岡ダイエーホークス
元 中日ドラゴンズ
元 近鉄バファローズ
- 氏 名
- 市原 圭(いちはら けい)
- ポジション
生年月日
出身地 - 内野手
1973年9月8日
大阪府
【球歴】
- 出身中学(出身チーム)
- ジュニアホークス(大阪府)
- 出身高校
- 上宮高校(大阪府)
- 出身大学
- -
- その他出身チーム
- -
【プロ野球歴】
- プロ野球入団
- 1991年 ドラフト8位 福岡ダイエーホークス
- 所属球団( )内は背番号
- 1992年~1993年 福岡ダイエーホークス (49)
1994年~1998年途中 中日ドラゴンズ (69)
1998年途中~2002年 近鉄バファローズ (45) - 引退
- 2002年
【プロ野球(NBA)通算成績】
- 通算:11年
-
試合数 打数 得点 打点 安打数 二塁打数 三塁打数 本塁打数 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 打率 83 37 20 1 5 0 0 0 3 0 1 3 1 9 .135
- 2003年~2004年 株式会社アシックス 企画開発部・グラブ担当
2004年~2010年 タイディプロモーション イベント・音楽関係等
2011年~2013年 いちごいちえ 飲食店
2014年1月 鉄板家「一寸法師」オープン
- 【 店名 】
- 鉄板家 『一寸法師』
- 【 住所 】
- 大阪府大阪市西区南堀江1-20-19 1F
- 【 営業時間 】
- 17:30~23:30(ラストオーダー)
- 【 定休日 】
- 不定休
- 【 電話番号 】
- 06-6536-1314
- 【 地 図 】
- 場所はコチラ
- 【 WEBサイト 】
- http://tabelog.com/osaka/A2702/A270201/27076688/
「俺は指導者の人に恵まれたプロ野球人生だったかな。ダイエーでは中尾コーチ、中日では立石コーチ、近鉄に行ったらその2人のコーチがいて、ホントに厳しさの中に愛情があってよく鍛えてもらったんだ」
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- 真木
- 「こんにちは、お久し振りです! すぐ近所なのにまだ食べにも来れてなくてこういった取材と言う形ですいません!」
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- 市原
- 「いやいや全然大丈夫よ」
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- 真木
- 「早速なんですけど、市原さんが野球を始めたのは何歳の頃だったんですか?」
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- 市原
- 「俺自身も当時の記憶はないんだけど、親に聞くと近所のお兄ちゃんが野球チームに入ってたのをよく見に行ってたらしいんだ。あまりにもしょっちゅう来てるからって事で監督さんがグラウンドに呼んでくれてキャッチボールをしてくれたんだって。そしたら『よし、次の日からおいで』って事でチームに入る事になったんだ。それが小学校の1年生の時だったって」
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- 真木
- 「じゃあ1年生からチームに入ったって事なんですね?しかしその監督さんは何でキャッチボールをしてくれて、しかもそれで入れてくれたんでしょうね?」
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- 市原
- 「さ~、それは聞いた事ないけど、でも当時のそのチームでは1年生からチームに入ったのは俺が初めてだったらしい」
-
- 真木
- 「へ~、よっぽど監督さんも市原さんが気になってたんでしょうね~。その当時から内野手だったんですか?」
-
- 市原
- 「いや、小学生の頃はピッチャーだったんだよ。6年生の時は県大会とかまで勝ち進んだりもしてね。でも体が大きい方ではなかったから、中学生になって周りのチームメイトを見てピッチャーをやめて内野手になったんだ」
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- 真木
- 「中学からは硬式野球を始めたんですよね?ジュニアホークスって言ったら大阪では昔から名門だってよく聞きますよね。やっぱり周りの選手もすごかったですか?」
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- 市原
- 「そうだね~。後々になって考えると恵まれてたよ。当時南海ホークスの二軍が使ってるグラウンドをプロが終わってから使わせてもらってたしね。二軍の人たちの練習が終わったら俺たち中学生が練習するって感じで。だからやっぱりグラウンドもそうだし、ボールとかもプロが使ってたものがお下がりみたいな感じで使えてたしね。だからなんだろうけど、選手もメチャクチャ多かったよ」
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- 真木
- 「それはすごいですね~!いくら二軍とは言え、目の前でプロの選手の練習が見れたり間近にホークスの選手たちがいた訳ですもんね~。それは子供ながらにして刺激は強いですね!
そんな環境で小学生、中学生で野球をやってて、練習はどうでした?チームの練習もですけど何か自分で練習とかしてました?」
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- 市原
- 「いや~、俺はそれなりにやってたつもりなんだけど、母親に聞くと、そんな大してやってなかったよって言われるな~。まあでもとにかく野球は大好きな子供だったから、野球をして遊んだり、それこそプロ野球を見によく大阪球場に来たりとかはしてたかな」
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- 真木
- 「昔よくいた野球少年って感じだったんでしょうね~。それで高校は名門の上宮高校ですよね。上宮に行く事になったのは自分で決めたんですか?」
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- 市原
- 「う~ん、当時は奈良に住んでたから、正直言うと天理高校とかに行きたいな~とも思ってたんだけど、チームの監督さんやうちの親とかから上宮高校を勧められて決めた感じだったな」
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- 真木
- 「それで入学してすぐの1年生の夏の大会で早速ベンチ入りして早々に甲子園のグラウンドに立ったんですもんね?」
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- 市原
- 「ベンチ入りできたのはたまたまだったんだけど、でもその時の3年生のメンバーと言えば、ショートに元木さんがいてサードに種田さん、他にもすごいメンバーだったね」
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- 真木
- 「さすが上宮高校ですね。上宮ってどんな野球部なんですか?寮生活ではなかったんでしたっけ?」
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- 市原
- 「うん、寮はなかったね。朝は学校前に朝練があってウェイトトレーニングをして、学校の授業が終わったらレギュラークラスはマイクロバスでグラウンドまで移動するんだけど、それ以外の選手は電車でグラウンドまで移動。だいたい練習が始まるのは16時とか17時だったかな。それで全体練習が終わるのは21時か22時くらいだったかな。そこからは自主練習でやりたい選手がやりたい練習をする感じ」
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- 真木
- 「へ~、それで寮じゃないんだったら家に帰りつくのは何時くらいなんですか?」
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- 市原
- 「家に帰りつくのが24時を過ぎてる事なんて当たり前だったね。グラウンドを出るのが24時近い事も珍しい事じゃなかったくらいだから。もう家に帰りついたら、食べるものだけ食べたらぶっ倒れて寝てるようなもんだったよ」
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- 真木
- 「逆に自分は寮生活だったのでそういう通学とか帰り着くのが遅いとかってあまり分からないんですよね~。毎日寝る時間も少ないですよね~、大変そう!」
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- 市原
- 「たしかにそれもそれで大変だったけど、でも寮生活で常に誰かと一緒って言う方が大変のような気がするな」
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- 真木
- 「そんな大変な高校野球生活を終えてドラフト指名になると思うんですけど、ドラフト前に指名の話は聞いてたんですか?」
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- 市原
- 「いや~、正直自分が今の実力でプロになれるなんて思ってもいなかったからね。その当時は、まずはアマチュアで全日本に選ばれて『JAPAN』のユニフォームを着てからプロを目指そうって思ってたな。そう思ってる中でのドラフト指名だったから、驚きと『自分が通用するのかな?』って不安の方が先だったのは覚えてるな」
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- 真木
- 「そうなんですね~。確かに当時はまだ全日本ってプロの選手とは別世界でアマチュアの最高峰の目指す場所でしたもんね。最近ではプロの選手との混合チームになって感覚が違うのかもしれませんけどね。実際プロに入団してみてからはどうでしたか?」
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- 市原
- 「子供の頃からそうなんだけど高校の時も守備には自信があったからその点は良かったんだけど、やっぱり体も大きい方じゃなかった分バッティングでは悩む事も多かったかな。途中、スイッチヒッターにも挑戦した時期があったけど、その時はホントに一日中バットを振ってた気がするくらいだな」
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- 真木
- 「確かにスイッチヒッターってすごいですよね。それまで振った事もなければ打席にも立った事がない方で打つ訳ですもんね。それが遊びならまだ分かりますけど、相手もプロのピッチャーな訳ですから球も速いし真剣に投げてくるボールを打たなきゃいけないんですもんね。人並みの練習では無理ですよね」
-
- 市原
- 「そうだな。でも体が大きくない分、少しでも自分がチャンスをもらえるようにって考えて必死だったね」
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- 真木
- 「市原さんは3球団でプレーしたと思いますがどこの球団が好きでしたか?何か良い思い出とか印象に残ってる事とかありますか?」
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- 市原
- 「う~ん、俺はどこの球団も好きだったからな~。やっぱり地元が関西だったから近鉄も良かったし、中日もね結構ファンの人たちも熱心だったしね。中日時代に初スタメンで試合に出た時の事なんかはよく覚えてるな。シーズン終盤の消化試合ではあったんだけど、当時二軍監督だった島野監督が代行で一軍の指揮を執ってて、前日に呼ばれて明日先発で行くぞってって言われてね。二軍で必死にやってる姿を見てくれてて起用してくれたんだって嬉しかったね」
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- 真木
- 「島野さんってそういう情に厚い人だったってよくいろんな人から聞きますね。一軍の初出場が初スタメンだったんですよね?やっぱり覚えてるもんですよね。自分も初登板は今でも覚えてますもんね」
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- 市原
- 「あとは近鉄の球団合併直前の優勝を経験できたのも良かったな」
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- 真木
- 「確かにあの優勝はまた北川さんの満塁ホームランとかもあってドラマチックでしたもんね~。近鉄も長い間低迷してた分、ファンの人たちの盛り上がりもすごかったしですね。自分は残念ながらそのシーズン途中でのトレードだったので優勝時はいなかったんですけどね。
最後は近鉄で戦力外になってそのまま引退って事になると思うんですけど、まだまだ現役続行は考えなかったんですか?」
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- 市原
- 「現役時代ケガが多くてね。特に最後の頃は手首も万全じゃなくて騙し騙しでやってたから、またテストで移籍できたとしても体が万全じゃない今、テスト生として勝負できるかな?って言う思いが強くてそのままユニフォームを脱ぐ事にしたんだ」
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- 真木
- 「そうだったんですね~。自分の中では市原さんがケガが多いってイメージはなかったんですけど実はそうだったんですね?黙ってムリをするタイプですもんね~。ユニフォームを脱ぐ時にはその先どうするか?って事は考えてたんですか?」
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- 市原
- 「いや~、何もなかったよ。自分で引退するって決めておきながらこれからどうしようって思ってたもんね。しばらくはいろいろ考えてたんだけど、球団関係者からのお話で野球用具メーカーにお世話になる事になってね。そこから一般社会人が始まったね」
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- 真木
- 「たぶん市原さんも同じだと思うんですけど、僕たちってアルバイトとかも経験がないままに歳だけは重ねていってるじゃないですか。長年、野球しかしてない生活から社会に出てどうでした?」
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- 市原
- 「いや~、メチャクチャ大変だったよ。30歳にして初めての就職だからね。周りの人たちは悪気はないんだろうけど、これくらいの事は当たり前って言うような事でも分からないしね。それこそ電話の出方とかその電話のつなぎ方とかね。名刺交換だって初めての経験だったし、普通にデスクにはパソコンが置かれてるんだけど、そんなの使い方も分からないしね。ホントすべての事が分からない事だらけだったね。でも今となってはそういう経験ができたのも良かったと思う。次にお世話になった会社ではイベント関係の仕事だったから自分で自らチラシを配ったりもしたしね。野球の世界にいたらこういう事も経験できないしね」
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- 真木
- 「そうですよね~。プロ野球の世界にいると世の中ではそういう地道な事が必要なんだって事が分からないですけど、でもみんながみんなプロの世界で生き続けられる訳ではないですもんね。それ以前にプロ野球選手だからと言って、もっと社会のこととか一般社会の事を知っても良いとは思うんですよね。あまり『野球バカ』過ぎるのも問題だと思います。
それではそろそろ最後になるんですけど、野球の世界も経験して、今はこうやって自分でお店もやるようになって、いろんな経験をした市原さんが伝えるべき事って何かありますか?」
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- 市原
- 「俺の経験なんかじゃ大したことは言えないんだけど、子供たちには野球を好きで続けられるようにしてほしいと思うかな。よく耳にするのが『この子はダメだから』とか『もうダメだ』みたいな事。子供でも大人でも大げさな表現だけど、出来る人は放っておいても出来るんだよね。でもそんなのはごく一部の人の話で、最初はみんなできないところからなんだよ。だから早くから『ダメ』って決め付けるんじゃなくて、出来ない子をどうやって出来るようにするのか?それが親だったり指導者だったり周りにいる大人のやるべき事だと思うんだよね」
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- 真木
- 「確かにそうかもしれませんね。大人は出来る子と出来ない子を選別してしまう事が多いのかもしれないですね。実際にそうやって選別してる大人だって、最初は出来ないところから始まった事も忘れてしまって」
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- 市原
- 「その為にも、子供には好きで続けさせてあげる環境作りが重要だと思うんだ。何事も好きじゃないと長続きしないもんね」
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- 真木
- 「そうですね。大人だったとしてもなかなか好きじゃない事を続けるのは難しい事ですもんね。
すいません、まだまだ聞きたい事や昔話もいっぱいしたいんですけど時間の問題もあるので今日はこの辺で終わらせてもらいます。楽しい昔話はまた日を改めて、当時の近鉄メンバーを集めてやりましょう!今日は本当にありがとうございました」
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- 市原
- 「いえいえ、こちらこそ。是非みんなで集まってやろう!」