南牟礼 豊蔵

profile

所属球団
元阪急ブレーブス
  オリックス・ブレーブス
             オリックス・ブルーウェーブ
           元中日ドラゴンズ
           元阪神タイガース
氏 名
南牟礼 豊蔵(みなみむれ とよぞう)
ポジション
生年月日
出身地
内野手・外野手
1960年12月9日
宮崎県

【球歴】

出身中学(出身チーム)
五十市中学校(軟式野球部)
出身高校
宮崎県立都城工業高校
出身大学
その他出身チーム
電電九州

【プロ野球歴】

プロ野球入団
1981年 ドラフト3位 阪急ブレーブス
所属球団( )内は背番号
1982年~1991年 阪急ブレーブス        (32→0)
            オリックス・ブレーブス
            オリックス・ブルーウェーブ
1991年~1993年 中日ドラゴンズ        (40)
1994年~1995年 阪神タイガース        (35)
引退
1995年

【プロ野球(NBA)通算成績】

通算:14年
試合数 打数 得点 打点 安打数 二塁打数 三塁打数 本塁打数 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 打率
546 747 106 78 186 25 5 13 32 28 4 57 1 122 .249

next stage

1996年~2001年  ラジオ関西 プロ野球解説者
2002年~2004年  関西健康科学専門学校 柔整科
2005年~      みなみむれ整骨院 開院
2007年~      株式会社コスモウェーブ 設立
【 店名 】
みなみむれ整骨院
【 住所 】
兵庫県西宮市武庫川町8番9号 リラ武庫川1階
【 営業時間 】
9:00~13:00 15:30~20:00(土・日14:30~18:00)
【 休診日 】
火曜日(祝日・木曜は午後休診)
【 電話 】
0798-40-8618
【 地 図 】
場所はコチラ
【 WEBサイト 】
http://www.eonet.ne.jp/~minamimure/index.html

interviews

「プロの世界は、教えてもらえる場所ではない。自分で技術を盗んで発表をする場所なんだ」

  • 真木
    「今日は貴重なお昼休み中にお時間を取らせてしまって申し訳ありませんがよろしくお願いします」
  • 南牟礼
    「いえいえ、こちらこそよろしくです」
  • 真木
    「いきなりありきたりな質問ですけど、野球を始めたキッカケってどういう感じだったんですか?」
  • 南牟礼
    「ウチはすぐ1歳上に兄がいたんだけど、小さい頃からその兄にくっついて回って兄の友達とかに混ざって遊んでもらってたんだ。特に昔はそういう時によくしてた遊びが野球だったかな。しかも兄は体も大きくて何をやっても優秀な方でね。子供ながら兄と比べられるのがメチャクチャ嫌でね。どうにかして兄に勝てないものかと思ってやってたのが野球なんだ」
  • 真木
    「子供の頃の1歳の差って大きいですもんね。体力で勝負してもなかなか勝てないですよね」
  • 南牟礼
    「そうそう。しかも一緒に遊んでると何かと言えばやられてばっかりだったね。毎日のように殴られたり蹴られたりしてたもんだから、とにかく兄と同じ事をするのが嫌で、兄が上から投げれば俺は横から投げてみたり、兄が右で打てば俺は左で打ってみたりと、同じ事をやってたんでは負けるのは分かってるから何か違う事をして勝てる事を探してたね」
  • 真木
    「そんな環境で自然と競争心が芽生えたんでしょうね」
  • 南牟礼
    「その通りなんだよ。何かこの兄に勝てるものはないかと必死にもがいてたんだけどなかなか何をやっても勝てなくてね。どうにか兄をやっつけたいと思って毎日ランニングをしたり、瓶の容器に砂鉄をつめておもりにして腕を鍛えたりしててね。そしたらある日、一緒にマラソンを走る事になって、いざ走ってみると兄に大きくリードを広げて勝つ事が出来たんだよ。その時に勝つ事の喜びを初めて味わったね」
  • 真木
    「それだけ毎日のように目標にしてた事が達成された瞬間ですもんね。でも兄弟だったら中学までは同じ学校で一緒に野球をする訳ですよね?」
  • 南牟礼
    「そうなんだよ。だから一時期は兄と一緒にやりたくなくて野球以外のスポーツをやったりする時期もあったんだけど、そんな俺を見て、母親から『本当に自分が好きな事をやりなさい』って言われた事がキッカケで結局中学でも野球をするようになったんだ。でも案の定、もちろん兄は同じ野球部にいるし、しかもキャプテンだったから俺ばっかりが特に厳しくされたね」
  • 真木
    「高校はどうだったんですか?」
  • 南牟礼
    「そんな兄弟関係だったから絶対に高校は一緒じゃない学校に行こうと思ってて、実際に地元の宮崎県では甲子園にも出場するようなある私学の高校に決まりかけてた直前に、兄と兄の行ってる高校の野球部の監督とでウチの家に来て、せっかく兄弟とも野球をやってるんだからウチの高校に来て兄弟で一緒にやったらどうだって言われたんですよ」
  • 真木
    「あれだけ一緒にはやりたくないって決めてたのに結局はどうしたんですか?」
  • 南牟礼
    「俺も監督さんの前で『僕は兄とは合わないので一緒に野球をする気はありません』って言ったんだ。兄が『一緒に野球をやろう』と言うんだったら考えますけど・・・とも。そしたら兄が監督の前で『一緒にやろう』と言われたから結局は兄と一緒の高校に行く事にしたんだ」
  • 真木
    「え~、そうなんですか?これまでの話から、まさか同じ高校へ行って野球をやる事になるとは想像してませんでした」
  • 南牟礼
    「ハハハ、そうだよな。それで俺が1年の時の3年生は県大会でベスト4くらいまで入って、次に1コ上の兄の学年もベスト8だったかベスト4に入って、自分たちの学年には良いピッチャーもいて県で優勝するぞって期待もされてたんだけど、いざ自分が最上級生になってキャプテンになった途端に盲腸にもなるわ、急性腎炎にもなるわでろくに練習もできない状況で夏を迎える事になってさ。結局期待されてたのに1回戦負けで終わり。最後の夏が終わってしまうとホントにポカ~ンと何もする事がなくなってしまったのを覚えてるね」
  • 真木
    「そうですよね。高校球児はみんな経験する事でしょうけど、あの3年の夏が終わった時の感覚って何とも言えないですよね。やり切ったと言うか寂しいと言うか・・・。特にその後の甲子園をテレビで見た時なんかは特に思いますよね。その後、高校からの進路はどうなったんですか?
  • 南牟礼
    「夏の大会で負けると次は、その後どうしようかなって事になるけど特に何か目標があったり自分の中で希望があった訳ではなかったんだ。兄も高校卒業の進路では少しドタバタがあったのも見てたから、とりあえずはどこかで野球が出来たら、って思って一時は大学に進学をしようと思って監督にも相談してたんだけど夏の大会は1回戦で負けてしまってたし俺自身の評価が高くなかったんだよね。宮崎の無名高校から紹介されて大阪の大学に入っても野球が出来るとは限らないぞ、球拾いで終わったりマネージャーになる事もあるかも、と言われると、やっぱり大学は厳しいんだなって考えるようになったんだ」
  • 真木
    「そうなんですね。そんな流れもあって社会人に行く事になったんですね」
  • 南牟礼
    「そうだね。でも今度社会人に入った途端に、高校で患った腎臓の病気が再発してね。医者からは薬で治まらなかったら人工透析をしなきゃいけないレベルだって言われたんだけど何とか薬で治まってくれて、2か月って言われてた入院期間も無理やり1か月で退院して。そんな状況だったから監督からは、マネージャーのような役割も頭に入れておいてくれって言われてさ。とりあえず入社してすぐに体も壊して、今後も満足に野球が出来るか分からない状況だったから納得してマネージャーのような動きもするようになったんだ」
  • 真木
    「高校の時も病気が原因であまり満足には練習できてないんですよね。社会人でも同じような状況になってしまったんですね」
  • 南牟礼
    「それがね、ある日車を運転してたら事故をしてしまったんだよ。これが俺にとっての1つの大きな転機になってね。事故自体は大した事じゃなかったんだけどね、その後に先輩から、事故したんだったら知人に良い先生がいるから治療に通ってこいって言われてさ。その先生のとこに言ったら、真っ先に腎臓が悪いだろってズバリ指摘されてさ。何で分かるのか聞いたら背骨がS字に曲がってるからこういう人は腎臓が悪い人が多いんだって言われてな。その先生が治療をしてくれる事になったんだよ」
  • 真木
    「へ~、そんな軽く触っただけで内臓が悪い事まで分かっちゃうなんて、当事者からしたら神様みたいなもんですよね」
  • 南牟礼
    「それまでは定期的に病院に通って、行くたびに山盛りの薬を渡されてこれを飲み続けないと血の小便が出続けてたから薬を手放せない状況だったんだ。そしたらその治療してくれる先生が、一回だまされたと思って薬をやめてみろって、いきなり怖いなら毎日朝の一回だけに減らしてみろって言われて恐る恐る言う事を聞いてみたんだ。そしたら病院の検査でもみるみるうちに数値も良くなっていって、思い切って薬を完全にやめてみたら、それでも検査では良くなっていったんだよ。まさに救世主だったね」
  • 真木
    「それはそうでしょうね~。薬に頼ってたのに、その薬がなくても症状が出ないって言ったら心理的にも安心しますよね。でもそんな体の状況からドラフトに掛かること自体がすごいですね」
  • 南牟礼
    「そうそう、実際病気の影響で、あまり炎天下の下で練習をして汗をかくことは良くないって言われてて練習したいんだったら日が暮れてからにしなさいって言われるような選手だったんだよ。野球選手でそんなのありえないだろ。で、たまたま社会人の都市対抗野球って全国大会に出場した時に1回戦がナイターだったんだ。そしたら監督が、夜の試合だからって事で試合に出れるように準備しとけよって言ってくれてスタメンで試合に出たんだ。相手が優勝候補だったんだけどそこで活躍もして試合にも勝ってね。たまたまが続いたんだけど、そこで初めて全国レベルで目に留まったんだと思うな」
  • 真木
    「へ~、ホントに一瞬のチャンスをモノにしたような感じなんですね。野球に限らずでしょうけど、どこか一つでも歯車がかみ合わなかったら、その後の展開も全て変わってたんでしょうしね。今の南牟礼さんの話はまさにその歯車の連続ですね」
  • 南牟礼
    「その後も、同じチームで他に2人ドラフトに掛かるレベルの選手がいて、常にプロのスカウトが集まってくるような環境だったから、それで実際に俺もドラフトに掛かる事になったんだよね。今度は実際にプロの世界に入ってみて、驚きの連続だったね。最初のうちは怖いもの知らずで無謀な自分がいてさ、当時、世界の福本さんももう30歳も越えたおじさんだったんだよ。試合中に怪我をした事もあってキャッチボールしても俺の方が投げれたしね、こんなおじさんに負けるわけないだろうって思ってたんだけど、それが全然なんだよね」
  • 真木
    「福本さんなんかはやっぱり目に見えない部分がすごいんですか?」
  • 南牟礼
    「こんな化け物にかなう訳ないなと思った事があって、3年目だったかな日本シリーズに出た年で、試合中に福本さんが頭にデッドボールをくらったんだよ。ヘルメットも吹っ飛んでその場で倒れこんでタンカで退場よ。プロの世界って怖いよね。俺の内心は『やった!やっとおじさんがいなくなった』って喜ぶ自分がいるんだよね。これで俺の出番だって。そしたら翌日、いつもと変わらず普通に『オイッス!』ってロッカールームに入ってくるんだよ。『え?福さん大丈夫なんですか?』って言っても『全然大丈夫や!』だってよ」
  • 真木
    「そりゃ若手からしたらビックリですね。プロの世界は特に、どこかポジションがあかないか、自分が生き残る術はないか、常にみんなが奪い合いをする訳ですからね。もちろんスポーツをやってる以上はプロじゃなくアマチュアの世界も同じでしょうけど、でもやっぱりプロの場合は自分の生活も家族も抱えてる訳ですから、更にそうなりますもんね」
  • 南牟礼
    「それからは中日へのトレードがあったり、戦力外になってからの阪神への移籍もあったりでプロの世界を渡り歩いたね。渡り歩いて気付いた事があって、プロはプロでも球団によったり、監督をはじめとする首脳陣の体制によって全然カラーが違うんだよね。阪急ブレーブスでは『プロでは教えてもらう場所じゃない。自分で技術を盗んで発表する場所』と思ってたけど、中日に移籍してみると『プロでも教えてもらえる。チーム内に応援してくれる人がいる』と言う事に気付いたね。特に亡くなってしまった島野さんなんかは、頑張ってる選手には1回でも多くチャンスを与えてくれって星野監督に言ってくれてましたね」
  • 真木
    「へ~、なんか同じプロの世界でもそんな両極端な話があるんですね。島野さんの話はよく他の人からも聞きますね。プロでそんな指導者に巡り合えたら最高ですよね」
  • 南牟礼
    「最後は阪神で戦力外になって、当時ダイエーの春季キャンプに誘ってもらって参加もしてたんだけど、キャンプの練習中に古傷の膝を痛めてしまってそこでもう年齢的にも、故障的にも諦めたかな」
  • 真木
    「そうなんですね。故障もあって引退を決意されたのであれば、まだ引きずる事なくユニフォームを脱ぐ感じだったんですね。引退後はどんな経緯でここの治療院をする事になったんですか?」
  • 南牟礼
    「最初は、まだまだイチローもオリックスにいたりして、関西での主にラジオとかの番組を担当させてもらったりもしてたんだけど、やっぱり景気の影響でスポンサーが離れたりイチローも海外に行ってしまったりで番組自体がなくなっていってね。そうこうしているうちに、やっぱりあの俺にとっての転機だった病気の治療の事が頭から離れなくて、この治療の仕事をやりたいと思ったんだ」
  • 真木
    「自らの経験を活かせるって言う意味では最高の仕事なのかもしれませんね。でも経験だけでは無理もあるでしょうし、いろいろ勉強とかも大変って聞きますよね」
  • 南牟礼
    「そうだね。最初は勉強しやすい事から始めてそれで開院はしてたんだけど、やっぱりもっと上を目指していくうちに、もっとちゃんと勉強をして国家資格も取得したいと思って家族にも理解してもらったんだ」
  • 真木
    「今までにも何人か同じ仕事をしている人に話を聞きましたけど、最低でも何年か掛かりますし費用だって数百万円が掛かるらしいですもんね。あまり勉強には慣れていない野球選手にとってはそれだけの費用と時間を掛けて取り組む事って簡単じゃないと思います。そろそろ最後になりますが、治療やリハビリを通じて南牟礼さんが伝えていってる事ってどんな事ですか?」
  • 南牟礼
    「時代の進歩って言うのもあるんだけど、俺自身の経験から体のトレーニングやリハビリって、正しい知識や正しい方法で行うかどうかで全く結果が変わってくると思うんだ。ここにも置いてるけど一般的なトレーニング器具を使っても、どういう意識でどこに刺激を与えるか、そこを指導する事によってリハビリの効果や選手のパフォーマンスが変わってくる事は実証されてるからね」
  • 真木
    「プロを経験した上に、実際にご自身が病気になって治療も受けて、怪我のリハビリも経験してきたからこそ説得力が違いますよね。
    今日は本当に長い時間ありがとうございました。編集的に限りもあるのでお聞きしたすべてをお伝えできないかもしれませんがすみません」
  • 南牟礼
    「いえいえ、こちらこそありがとう」
  • 真木
    「これからもよろしくお願いします」
  • 南牟礼
    「またいつでも寄ってな」
カテゴリー: 元プロ野球選手名鑑   パーマリンク

コメントは受け付けていません。

スポンサーリンク
スポンサーリンク