- 所属球団
- 元日本ハムファイターズ
- 氏 名
- 村西 辰彦(むらにし たつひこ)
- ポジション
生年月日
出身地 - 外野手
1978年10月8日
滋賀県
【球歴】
- 出身中学(出身チーム)
- 秦荘中学校 軟式野球部
- 出身高校
- 近江高校(滋賀県)
- 出身大学
- 愛知学院大学
- その他出身チーム
- -
【プロ野球歴】
- プロ野球入団
- 2001年 ドラフト7位 日本ハムファイターズ
- 所属球団( )内は背番号
- 2002年 日本ハムファイターズ (67)
- 引退
- 2002年
【プロ野球(NBA)通算成績】
- 通算:1年
-
試合数 打数 得点 打点 安打数 二塁打数 三塁打数 本塁打数 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 打率 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
- 2003年 米・独立リーグ リンカーン・ソルトドッグス
2003年 米・独立リーグ エバンズビル・オッターズ
2003年 米・独立リーグ フローレンス・フリーダム
2004年 コロンビア・ウィンターリーグ バランキージャ・カイマネス
2005年 米・独立リーグ ジャパン・サムライ・ベアーズ
2006年~現在 村西司法事務所
- 【 名称 】
- 村西司法事務所
- 【 住所 】
- 滋賀県愛知郡愛荘町豊満489-6
- 【 電話番号 】
- 0749-42-4573
- 【 休日 】
- 不定休
- 【 - 】
- -
- 【 地 図 】
- 場所はコチラ
- 【 WEBサイト 】
- なし
「右打ちだったのを左打ちにも挑戦したんですけど、左でバットコントロールが出来るようになるまで3年くらいかかりましたね」
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- 真木
- 「どうも、久し振り~。ある共通の友人からは『村西は野球をやめてから太ってますよ!』って聞いてたけど、見た感じそんな事ないね(笑)」
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- 村西
- 「一時期はヤバかったんですよ。今は一番ピークに太ってる時からしたら10kg以上減量したのでマシですけどね」
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- 真木
- 「やっぱりそうだったんだ。まあ野球をやめると太る人は多いもんね~。俺も人の事は言えないけど・・・。じゃあそろそろ本題に入らせてもらうけど、野球を始めたのは何歳くらいだった?」
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- 村西
- 「チームに入ったのはそのチームの決まりだったので小学校の4年生だったんですけど、5歳上の兄が野球をやってたので、3歳とか4歳くらいから兄についていっては野球をして遊んでた記憶ですね」
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- 真木
- 「こうやっていろんなOBの人に話を聞いてると、同じようにお兄さんの影響で野球を始めたって人は結構多いんだよね。それで中学生の時は学校の軟式野球部なんやね?小学校、中学校の時の思い出ってある?」
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- 村西
- 「う~ん、すごくいい指導者の方と巡り合えたと思ってますね。小学生の時のチームの監督さんはすごく熱心で、申し訳ないんですけど家庭をほったらかしにして僕たちの指導をしてくれるような人でした。中学生の時は、野球経験ゼロの人で陸上経験の先生だったんです。当時はまだ野球の練習って言ったら非近代的な昔ながらの練習が多かったと思うんですけど、その先生は陸上経験者だったので走り方だったりストレッチのやり方、トレーニングのやり方、すごく勉強になった事を覚えてますね」
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- 真木
- 「たしかに!俺も中学の野球部だったけど、下級生の時は先輩たちが練習してる外側を延々と走らされてばっかりだったね。村西くんは早いうちからそういう合理的なトレーニングとかを経験できたから人よりもずば抜けて足が速かったんかな?」
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- 村西
- 「足自体は小学生の時から自信はありましたけど、でもやっぱり中学のその先生の教えも良かったんだと思います」
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- 真木
- 「高校は滋賀県の私学で近江高校だよね?近江に行く事になったのはどんな心境だったの?」
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- 村西
- 「正直言うと県外の有名な高校に行って野球をしたいって気持ちもあったんですけど、なかなか現実はそういう訳にもいかずで、それで県内のいくつかの高校から声を掛けてもらえてたので、その中で熱心に声を掛けてもらった近江高校に決めたって感じですね」
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- 真木
- 「それで3年の夏には甲子園に出るんだもんね~。俺は夏の甲子園には出れなかったからその経験は出来なかったんだよね。あの夏の県予選を優勝しての出場だから、今でもやっぱり憧れるな~。やっぱり決勝なんかはシビれるもんなの?決勝なんて勝つか負けるかで天国と地獄の差があるもんね」
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- 村西
- 「でも意外と緊張はしませんでしたね。もう勝つもんだと思い込んで挑んでましたから」
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- 真木
- 「前評判でも近江高校が優勝候補だったの?」
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- 村西
- 「いえ、比叡山高校ってところが断トツの優勝候補で、ウチ含めたその他の高校は横並びの戦力でしたね。比叡山高校は春の甲子園にも出ててベスト16か8くらいまで勝ってたんですよ。その春の甲子園の予選になる秋の滋賀県大会の準決勝でも試合してたんですけど負けてましたしね。だからウチはなんとしてでも比叡山を倒すぞって大きな目標が明確にあって、夏前に1か月くらいみんなで猛練習をして自信をもって夏の予選を迎えたんです。今でもその当時のメンバーで集まると、あの時はよく練習したよなって話にはなりますもんね。」
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- 真木
- 「それで夏の予選では比叡山高校とあたったの?」
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- 村西
- 「はい、3回戦だったかな。たぶん比叡山は楽勝で勝つだろうと思ってたはずなんですけど、結果、ウチが大差で勝っちゃったんですよ。だからその後の試合は比叡山を倒したって自信で勢いに乗っていけましたね。」
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- 真木
- 「へ~、聞いてるだけで高校野球って感じがするね。みんなが打倒・比叡山って目標に一致団結したんだろうね~。たぶん中学生とか高校生くらいの野球って、とびぬけた怪物みたいな選手がいない限り、戦力で勝つよりもチームのまとまりとか士気を高める事の方がトーナメントを勝つ事には大切な事なんだと思うんだよね。それがリーグ戦とかプロレベルになると、個々の能力も重要になってくると思うけどね。ちなみに、さっきから聞いてなかったんだけど、子供の頃はポジションはどこだったの?」
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- 村西
- 「小学校の時からずっと、ピッチャーと内野をやってましたね。時期によってエース的な存在で投げたり、他にもピッチャーがいる時期は内野をやりながらピッチャーもやるって感じです。だから甲子園でも、背番号は6で、スタメンはショートで途中マウンドにも立ちましたね」
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- 真木
- 「そうなんだ~、ピッチャーとは想像もしてなかった。俺は村西くんと言えば外野手だとしか思ってもなかった。じゃあ外野はいつからなの?」
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- 村西
- 「高校卒業して大学にいって、、大学3年の秋くらいからですね。大学に入学した時はピッチャーやってて、でも周りの145とか150km/hくらい投げる選手を見てこれじゃ俺は通用しないと思って自分からピッチャーをやめさせてもらったんです。ピッチャーやめて最初は内野だったんですけど、自分の心の中でずっと内野の守備は苦手意識があって、それで外野にコンバートしてもらったんです」
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- 真木
- 「村西くんにはもう一つ聞きたい事があって来たんだけど、スイッチ(両打ち)はいつから始めたの?」
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- 村西
- 「スイッチと言うより、最初は右打席を完全に捨てて、左打席だけに挑戦したんです。それが大学2年生の終わり頃で冬の時期ですね。やっぱり大学に進んでさっき言った守備もそうなんですけどバッティングでも壁にぶち当たってたんですよね。右だったら自分くらいの打撃力なんてゴロゴロいましたし・・・。それでやっぱり足には自信があったので左打ちに挑戦したんです」
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- 真木
- 「そうなんだ、最初はスイッチじゃなくて左だけに挑戦したんだ。そこにすごく興味があって、同じような悩みを抱えた選手ってたくさんいると思うんだよね。やっぱり右バッターだったらそれなりにパワーとか率を残さないと目立てないもんね。その点、そこそこ足が速ければそこを活かした打法があったりして広がるもんね。結局その左打ちを自分のモノにできるまではどれくらいかかった?」
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- 村西
- 「いや~、自分の中でも左でしっかりと振れるバットコントロールが出来るようになったのはプロに入る前ですから3年近くかかりましたね。もうホントに全然打てませんでしたよ。やっぱりこの右腕が言うこと聞かないんですよ。どうしても打ちにいった時に脇があいてしまうんですよね。その分、打てないからバントと当てて転がして足を活かすって事には徹底しましたね」
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- 真木
- 「そんなこんなで大学卒業して、そのままアメリカに行ったんだよね?アメリカに行く事になった経緯はどんな流れだったの?」
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- 村西
- 「正直言うと、あまり社会人に行って仕事をしながら野球をするって感覚を持てなかったんですよね。だから自分でインターネットを使ったりしていろいろと調べて確約もないまま単身でアメリカに行ったんです。それで事前に少しコンタクトを取ってた人と一緒にたまたま同じような日本人をかき集めてチームを作ってるところがあってそこでプレーさせてもらったんです。とは言っても、そのチームも独立リーグとかに属してる訳でもなく、現地のアメリカ人のチームと練習試合みたいな事をするくらいだったんですけどね」
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- 真木
- 「すごい行動力だね~。しかも最近でこそ日本に独立リーグが出来たり、アメリカに渡って野球を続けるって言う事が認知されてきたけど、まだ10年ちょっと前の当時だったらそういう野球選手はまだまだ少なかったでしょ?人数も少ないから無名な日本人がアメリカに行って野球をする環境なんて整ってないしね。自力で見つけださなきゃいけなかったでしょ。でも、そんな野球生活を送ってて、どうやって日本のプロ野球に入ることになったの?」
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- 村西
- 「アメリカから帰ってきて、もちろんチームがある訳でもないしどうしようかと思ってたら、母校の近江高校で練習を一緒にさせてもらえるようになったんです。コーチ兼みたいな感じで練習してたら、その時の近江高校が夏の甲子園に出場して決勝まで進んで、結局その高校3年生の中から2人がドラフトに掛かるって事になったんですよ。そしたらやっぱり自分も子供の頃からプロ野球に憧れてたのがあって、プロテストを受ける事にしたんです。最初はインターネットで日程とかを調べてバットを抱えて寝台列車に乗って行きましたね。それで1次、2次、3次って通過して秋のキャンプにも参加できることになって、結果日本ハムがドラフトで指名してくれるって事になったんですよ」
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- 真木
- 「へ~、ジプシーな野球生活から一変したんだね。じゃあドラフトでは指名されるって言うのは確実であまりドキドキしてなかったの?」
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- 村西
- 「いやでも、ドラフトの上位の方で指名状況によっては・・・みたいなニュアンスでしか聞かされてなかったからホントに指名されるんだろうか?って不安はすごくありましたよ。当日も、近江高校で待機させてもらったんですけど、さっき言った3年生の2人は早々に指名された報告が来ても自分一人だけいつまでも来なかったんです・・・。だから余計にやっぱり指名されなかったんじゃないか?って思ってましたね」
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- 真木
- 「いざ、プロに入ってみてどうだった?」
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- 村西
- 「まあでも1年だけでしたからね、あっと言う間って感じですよ。右も左も分からない1年目が終わって、さあ来年はしっかり準備して勝負しなきゃって思ってる矢先に戦力外になりましたから」
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- 真木
- 「そうだよな。俺が言うのも失礼な話だろうけど1年だけって言うのはアカンと思うわ。若い選手を取るんだったら、やっぱり即戦力になる可能性の方が低いんだからせめて数年は育てるつもりで取らないとな。でもやっぱり納得がいかない気持ちもあってまたアメリカに渡る気持ちになったの?」
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- 村西
- 「そうですね。最初は日本の他球団のテストをしてもらっていい感触はあったんですよ。秋季キャンプにも参加させてもらったんですけど、結局ドラフトの指名状況とかその球団の登録選手枠の問題で契約は出来なかったので日本の道はなくなったんです。それでまたいろいろ調べながらアメリカに挑戦する事になりましたね」
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- 真木
- 「それで数年間はアメリカの独立リーグでプレーする事になるんだけど、最後野球をやめる事になったキッカケは何かあったの?」
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- 村西
- 「キッカケって言うのがあった訳ではないんですけど、むこうで数年独立リーグでやってる間もずっとメジャー傘下のマイナー契約ができるようにと思ってずっと頑張ってましたけどなかなか声は掛からないし、年齢が行けばいくほどそのマイナー契約の可能性も低くなりますしね。いつまでも引きずっててもしょうがないかなと思ったのが最後ですかね。最後も、来年はウチでどうだ?って言ってくれるアメリカの独立リーグもあったんですけど、でも思ってたよりあっさりと辞めれましたね」
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- 真木
- 「そっか~。でも自分の中で野球を辞めたらここの事務所で仕事をするって気持ちが心のどこかにはあったの?」
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- 村西
- 「いや、全然です。見てお分かりの通り、死ぬほど勉強をしないとできない仕事ですし、子供の頃からこの仕事をするって気持ちはこれっぽっちもなかったですね。勉強苦手ですし。兄もいますけど兄もこの仕事とは全然違う仕事をしてますしね。子供ながらに小さいころから父親を見て大変そうな仕事って言うのは感じてましたから。でもやっぱり自分が大人になってみると、その父親の大変さが感謝に変わるんですよね。父親もまだ僕が産まれるかどうかくらいの時に司法書士の資格を取る為に学校に行って勉強して何年もかかって合格してここまでやってきてますから、その事務所の先の事も考えないとって思うようにもなって。まあその前に僕がしっかりと勉強して司法書士の試験に合格しないといけないんですけどね」
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- 真木
- 「そっかそっか。士業の中でもトップクラスの難しさだろうから大変だろうけど頑張ってほしいな。じゃあ最後に、子供の頃から今に至るまでいろんな経験をしてきてる村西くんが、将来のある野球少年やその家族の人たちに伝えられることがあればお願いします」
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- 村西
- 「そうですね~、ウチの父親がそうだったんで僕がこうやってこれたんですけど、子供のうちだったり若い時はいろんな事に挑戦させてほしいですね。僕は子供の頃から好奇心も旺盛でやりたい事が多かったんですけど、それを父親はダメとは言わずに挑戦させてくれましたからね。さすがにコロンビアに野球をしに行くって言った時は、治安は大丈夫か?って事に心配はされましたけど、それでも行かせてくれましたからね。そういういろんな経験をさせてもらえた事が今の僕の財産になってると思いますから」
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- 真木
- 「確かにね。俺も一緒んだけだったけどアメリカやカナダに行って外国人の人と共同で生活をしたりいろんな経験が出来たことがすごく良かったと思ってるな。日本でクビになってそのまま日本しか知らないのとでは、またちょっと違ったのかな?とも思えるしね」
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- 村西
- 「そうだと思いますね。いろんな部分で視野が広く感じれるんだと思うんです」
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- 真木
- 「まだまだ聞きたい話はたくさんあるんだけど時間の都合もあってこの辺でまとめさせてもらうわ。また当時の話は別の機会で聞かせてもらうので、今日はこれで終わります。勉強も仕事もあって忙しい身なのにありがとうね。とにかくまずは試験に合格できるように頑張って」
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- 村西
- 「はい、ありがとうございます。頑張ります」