若林 弘泰

profile

所属球団
元中日ドラゴンズ
氏 名
若林 弘泰(わかばやし ひろやす)
ポジション
生年月日
出身地
投手
1966年4月22日
神奈川県

【球歴】

出身中学(出身チーム)
横浜市立永田中学校 (軟式野球部)
出身高校
東海大学相模高校 (神奈川県)
出身大学
東海大学
その他出身チーム
日立製作所

【プロ野球歴】

プロ野球入団
1991年 ドラフト4位 中日ドラゴンズ
所属球団( )内は背番号
1992年~1997年 中日ドラゴンズ (35→59)
引退
1997年

【プロ野球(NBA)通算成績】

通算:6年
登板 先発 勝利 敗戦 セーブ ホールド 投球回数 被安打 被本塁打 与四球 与死球 奪三振 失点 自責点 防御率
17 0 1 1 0 20.1 32 3 13 2 9 22 20 8.85

next stage

1998年~2000年 佐川急便㈱
2001年~2003年 湊エクスプレス㈱
2004年        センエンタープライズ㈱
2006年        東海大学菅生高校 教諭
2008年~現在   東海大学菅生高校 野球部監督
【 高校名 】
東海大学菅生高校
【 住所 】
東京都あきる野市菅生1817
【 電話番号 】
042-559-2200
【 - 】
【 - 】
【 地 図 】
場所はコチラ
【 WEBサイト 】
http://www.sugao.ed.jp/hs/index.html

interviews

「人生のチャンスってどこにどんな風に落ちているか分からないんだよ。そのチャンスを見逃さずにつかむ為には人の縁を大切にする事だと思うな」

  • 真木
    「こんにちは、以前から一回練習を見に行きますって言ってたのがやっと来れて良かったです。それにしても野球に集中できそうな場所で良いですね~」
  • 若林
    「そうだろ~、ホントこの辺りは何もないからね。学校とグラウンドの往復ばっかりだよ」
  • 真木
    「そうですね。高校野球って感じで良いじゃないですか~。それじゃ練習中ですけどよろしくお願いします。 早速ですけど、若林さんが野球を始めたのはいつくらいですか?」
  • 若林
    「チームに入るようになったのは小学校の3年生の時だね。2年生の時に家が横浜市の新興住宅に引っ越ししたんだ。最初は友達同士で遊んでたんだけど、やっぱりチームに入りたくて近くの公園でやってるチームがあったから友達と一緒に入れて欲しいって言いに行ったんだ。そしたらどうしても入りたければ親と一緒に来なさいって断られて、次の週に親を連れて行ってやっと入れてもらったんだ」
  • 真木
    「少年野球で一旦は断られるって珍しいですね~」
  • 若林
    「人数も多いチームだったからね。何も調べもしなくてそのチームに入れてもらったんだけど、いざ入ってみたら、そこが地域では一番厳しいチームだったんだよ。結構昔ながらのスパルタなチームで、俺の少し上とか下の世代の人でも、後にプロ野球選手になったり日本代表になったりするような選手がたくさん輩出されたチームだったんだ。俺も最初にあのチームで野球をやれたからその後もずっと厳しい環境の中で続ける事が出来たんだと思うな」
  • 真木
    「そうなんですね~。中学は学校の野球部でしたよね?軟式の」
  • 若林
    「そうそう、これもたまたまなんだけど、俺の住んでた校区の中学校の野球部の監督が、その辺ではすごい有名な監督さんで、神奈川県の有名な高校の監督さん達もよく来られるような人だったんだ。神奈川県にいくつもある中の一つで東海大相模ってみんなが憧れる高校があって、当時は原監督(ジャイアンツの原辰徳さんの実父)だったんだけど、原監督からも信頼されるような監督だったんだよ」
  • 真木
    「中学校って住んでる地域でどこに行くかは決められるもんだから自分では選べないですもんね。それでたまたまそういう監督だったって言うのは運が良かったんですね~。その分、やっぱり厳しかったんですか?」
  • 若林
    「そうだな~。もちろん練習や監督も厳しかったけど、昔で言う先輩後輩の上下関係も厳しかったね。たぶん俺の野球人生の中で、一番厳しくてしんどかった時期がこの中学時代だね。中学生だから他の学校の事なんか全然分からないから実際はそんな事なかったんだろうけど、その当時は、絶対日本一きつい野球部だ!って思って耐えてたね」
  • 真木
    「その頃からずっとピッチャーだったんですか?」
  • 若林
    「いや、中学の頃は最初はサードとかファーストとかが多かったかな。それで中学で先輩が引退して最上級生になってから本格的にピッチャーを始めたかな」
  • 真木
    「そうなんですか?でも東海大相模に進学する時はピッチャーとしてですよね?それこそそんな超名門の高校に行くわりに経験は浅かったんですね?」
  • 若林
    「そうだね。相模高校進学には面白い話があってさ、ちょうど俺が小学生の頃に相模高校に原辰徳さんがいて、それこそメチャクチャ憧れてたんだよ。それで中学の監督が、予選を勝って県大会にさえ出れば当時相模高校の原監督が見に来てくれるからチャンスがあるって。だから『何としてでも予選を勝て』って言われてたのが県大会のかかった試合で負けてしまって、もうその時点で相模に行く事は諦めてたんだ」
  • 真木
    「最後の大会で負けてしまったから、もう相模高校の監督に見てもらうチャンスがなくなってしまったわけですよね?じゃあ他の高校に行こうと考えてたんですね?」
  • 若林
    「そうそう。一番行きたかったのは相模だったんだけど、他の家から近くて野球が出来る高校を目指そうと思ってたある日、中学の監督から一度相模高校の野球部の練習でも見て来いって言われて片道2時間くらいかけて電車で行った事があったんだよ。電車に乗ってグラウンドに向かってるうちに雨が降り出してしまって、グラウンドについたら室内練習場で練習してたんだ。室内を覗き込むように見てたら、たまたま原監督から『どこの中学だ?』って声をかけてもらえて『永田中学です』って答えたら『あ~、森先生のとこか!』って事で中に入れてもらって特別な待遇で練習を見せてもらえたんだ」
  • 真木
    「へ~、そこでもしっかりとその中学の監督さんの力が発揮されてる訳ですね」
  • 若林
    「今度は見てるうちに原監督が『投げてみろ』って言われたんだけど、もちろん制服のまま行ってるし野球道具だって持ってなかったから、内心では行きたい高校なんだけど『いや道具もないのでいいです』って断ったんだよ。そしたら『そのままでいいんだよ!』って言われて、結局、相模の高校生から道具を借りて投げることになったんだ。硬球投げるのもそこが初めてだったんだけど、それで見てもらってウチに来いって声を掛けてもらえたんだ」
  • 真木
    「それでですか?じゃあその日グラウンドに行ってなかったら相模には行けてなかったんですかね?」
  • 若林
    「そうそう、よくみんなに言うんだけど、その日グラウンドに行ってたまたま雨が降ったから結果相模に行けることになったんだけど、たぶんあそこで雨が降らなければ、原監督もわざわざ俺に気付きもしなかっただろうし、そしたら俺は相模のユニフォームを着る事もなかったんだと思うって。ホント人間って、どこにどんなチャンスが落ちてるか分からないんだよな~」
  • 真木
    「そうですね。しかもせっかくそうやってチャンスが落ちてても、ホントにそこで道具がないからって言って投げるのを断り続けてたらせっかく落ちてるチャンスも掴む事が出来てなかった訳ですもんね~。チャンスを掴むってそういう事なんでしょうね~。実際、その憧れの相模高校に行ってどうだったんですか?」
  • 若林
    「やっぱり厳しかったよ。原監督の教えは『野球は根性や!』だったから、それが野球部全員に浸透してたんだよ。根性なしのプレーをすると監督だけじゃなくて先輩からも怒られてたね。でもその反面、優しい部分もあるんだよね。当時プロ野球でも広岡監督の管理野球が全盛期で、よく広岡監督の本を読んだりしててその中に「自分が風呂に入ってる時に入ってくる選手って言うのは向上心があって良い選手だ」みたいな事が書いてあって、原監督も根性だ!って言ってくるくらいだし、俺もビビらずに原監督が風呂に入ってても一人だろうとよく入っていったんだよ。そしたらその読んだ本の通りで、その日試合で打たれてようと何だろうと、風呂の中ではホント良いオヤジって感じでいろんな事を話してくれたんだよ」
  • 真木
    「へ~、そういう話っていいですね~。寮生活の良いところだし、なかなか今の時代では聞かなくなった話ですね。その後、東海大学、日立製作所とアマチュア野球を経験していくんですよね?実際にプロになれるんじゃないかって現実的に思うようになったのはいつくらいですか?」
  • 若林
    「大学2年生の時かな~。すべての野球人生が終わってみても、その頃が一番自分の思ったようなボールが投げれた時期だったかな。でも大学3年の時に肘を痛めてしまって手術もしたんだ。だから3年生の時はほとんど1年間は投げれない日が多かったんだ。それからリハビリをして少しずつ少しずつ投げだしたんだけど、やっぱり良かった頃のボールは戻らなかったな~。それで社会人の日立に行って野球をやる事になるんだけど、日立でも1年目に肩を痛めてしまってここでもまた1年間ほとんど投げれなかったね。そこでは地獄だったな~」
  • 真木
    「また故障ですか?結構ケガの多い野球人生だったんですね~。その時は手術するほどの痛みではなかったんですか?」
  • 若林
    「その時もいろいろと迷って一度は手術したいって監督に言った事もあったんだけど、その時の監督が、肘の手術では復帰する人もいるけど肩の手術で復帰してきた選手なんて聞いた事ないぞ!って言って手術を反対してくれたんだよ。後々になって確かにそうだなと思って感謝したけどね。でもそれなりに期待をされて入社していきなり1年目の最初で故障して投げれなくなっちゃったから、野球部の中でもそうだし、会社の中でも批判だらけだよ。悔しくて悔しくて、心の中では『いつか見てろよ!』って歯を食いしばってたのを覚えてるね」
  • 真木
    「それで3年目にドラフトで指名されたんでしたよね?ドラフト指名は事前に分かってたんですか?」
  • 若林
    「2年目も3年目もずっと活躍してたって訳じゃなかったから、そんなに前評判も高くなかったんだよね。一応プロからの調査書とかは書いてたから、巨人とかロッテの人からは指名するって話は聞いてはいたんだけどでもやっぱり確信は持ってなかったんだよ。ドラフトはテレビでも中継はされてたから見てたんだけど、結局3位指名が終わってテレビ中継も終わり指名もされなかったから『結局俺はプロには行けなかったんだ』ってガックリして部屋に戻ってたら、後輩が『中日に4位指名されました!』って教えてくれてさ。もう大喜びだよね」
  • 真木
    「じゃあドラフト当日なんかドキドキだったんですね。それで子供の頃から憧れてたプロの世界に自らの足で踏み入れてみてどうでしたか?」
  • 若林
    「入団してすぐはまた肩の調子が悪くてあまり結果も出なくて苦しんだんだよ。1年目が終わって2年目に入ってもなかなか結果が出せずにいて、もう自分の中でヤバいなって思うようになって俺はもうクビになるだろうなって思ったら恐れる事もなくなって、もう最後になるんだったら次登板する事があったら楽しんで投げようって思うようになったら今度は反対に抑えられるようになってさ。そんな登板が続いていくうちに今度は一軍候補になったり翌シーズンでは一軍キャンプスタートになったりしてね。それで一軍でも投げる事ができるようになったんだ」
  • 真木
    「へ~、よく『開き直ったら・・・』って言いますけど、本当にそんな感じだったんでしょうね。確かに自分も経験しましたけど、プロの世界って常に結果を恐れてしまう自分との戦いでもありましたね~。二軍に落とされてしまう・・・とか、戦力外になってしまう・・・って感じで。だから終わってみてからよく思うのは、アマチュアの時と比べてみると純粋に野球と向き合えてたのかな?って思う事はありますね。意外とあのプレッシャーって大きいものだったんですよね~。それでプロを引退する時はどんな状況だったんですか?」
  • 若林
    「ちょうど中日がBクラスで終わって、投手陣も若手を育てなきゃって言うよく言う若返りの時期だったんだよね。それで俺も入団は遅かったんだけど歳は取ってたから戦力外になって・・・。その時、他球団で現役続行も考えたしいろんな人に相談もしたんだけど、当時まだ合同トライアウトもなく、結構頼る人によって状況が大きく変わったりタイミングも悪かったりで結局他球団での現役続行の道がなくなったんだ。それで最終的に迷ったのは、何とかプロの裏方として球界に残っていつかトレーニングコーチを目指すか、アマチュア界に復帰して指導者の道を目指すかだったんだ。最終的には野球に力を入れている会社で佐川急便に就職する事にしたんだ」
  • 真木
    「プロではなくアマチュアでの指導者の道を選択したんですね?」
  • 若林
    「当時は佐川急便も硬式のチームに変わるかもって言う話もあったしね。でも結局はやっぱり硬式で肩を痛めてた事もあって、佐川で軟式ボールを投げてたらまた肩を痛めてしまってなかなか思うように投げれなかったんだ。結局佐川では2年で野球をやめて、しばらくは運送業の仕事だからトラックを運転したりする仕事をしてたんだ。そんなある日、学生時代の先輩が高校野球の監督をしていてそこにあいさつに行ったり、他の先輩と話をしてたりするうちに、やっぱり野球をやりたい!と思うようになって、仕事を辞めて教員資格を取る為にまた学校に通う事にしたんだ」
  • 真木
    「へ~、なかなか波乱万丈な時を過ごしてたんですね。野球を辞めてから高校野球の指導者を目指して教員資格を取りに行く人も多くなってきましたけど、まだ当時は元プロの高校野球への返り咲きはハードルも高くて大変だったでしょうね。でもこうやって目標を達成して、同じ東海大学系列の高校で野球部の監督をされてるんですもんね。今はその苦労された分やりがいもあるでしょうね」
  • 若林
    「そうだね。当時はまだ元プロ野球選手が高校野球部に関与するには、教員免許を持って2年間、野球部に携わらずに教壇に立たないといけなかったからね。もちろん今もそうだけど、やっぱり授業を教えるとなるとそれだけ教える側もちゃんと予習をしないと授業なんてできないしね。いまだに勉強は続けてるよ。生徒も百人いれば百通りの人間がいるからね。昔だったら頭ごなしに怒ってたかもしれないけど、今の俺は生徒にも成長させられて、生徒も生徒なりに言い分があるんだろうなと思って、どんなに悪くても話を聞いてから話し合いをするようにもなったよ」
  • 真木
    「すごいですね~。時代と共に若林さんも変化してきたんですね~(笑)。じゃあそろそろ最後になりますが、今までにいろいろ経験してきて、今もなお高校生を指導し続けてる若林さんが、これからまだまだ野球を頑張ろうとしている子やその親の人たちに向けてアドバイスをもらえますか?」
  • 若林
    「う~ん俺は今、高校の野球部の監督をしてるんだけど野球部の監督だからと言って野球だけを教えればいいのかって言ったら全然そうは思わないんだよ。よく元プロの人に野球を教えてくださいって言われる事があると思うんだ。俺ももしかしたら元プロだから監督をやらせてもらってるのかもしれないんだよね。ただ単に野球だけを教えるのは簡単なんだよ。塾みたいなもんなんだから。でもそれじゃダメなんだよね。野球を続ける意味、野球をやっていく中で大切な事って、人と人との縁だったり繋がりだと思うんだ。もちろん野球をやってる最中はそんな事は気付かない子の方が多いと思うよ。だからこそ指導者が、しっかりと人間形成を含めた指導をしなければいけないんだよ。俺も野球をやめた後に色んな仕事だったり経験をしてきたけど、常に野球関係の人に助けてもらったし刺激をもらったし気付かせてももらったんだ。そういう事が一番大切な事だと思うんだよね」
  • 真木
    「さすがいろんな経験もしてる上に、今現在も高校生を指導してる立場の若林さんからの言葉なのですごく説得力がありますね」
  • 若林
    「もちろんその上でも野球をやってる以上、勝ち負けもあるんだよね。勝ちたいよ、甲子園にも出たいよ。でも例えば、素行も悪い、挨拶もできない、言葉使いも悪い、そんな選手を引き連れて甲子園で優勝したとしても全然意味がないと思うんだ。それだったら、きちんと挨拶もできる、人の傷みもわかる、ひた向きに頑張れる選手と一緒に甲子園を目指して頑張ってる姿の方が何倍も何十倍も意味がある事だと思うし、選手にとっても財産になると思うんだよね。俺はそんな野球部にしたいし、そんな野球選手を育てたいね」
  • 真木
    「いい監督じゃないですか~。そんな監督だったらかわいい子供たちを預けたいと思いますね」
  • 若林
    「話はそれちゃったけど大丈夫?」
  • 真木
    「全然大丈夫ですよ!逆にいい話が聞けて良かったです。じゃあそろそろ時間なので終わらせてもらいますが、とにかく早く兵庫県で待ってますよ(甲子園)。次の試合も頑張ってください」
  • 若林
    「おう、待っててくれ」
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